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どんっと目の前に置かれたそれに、レノリアの目が丸くなった。
軽く直径40センチはあるであろう、ホールケーキ。しかも、こってりとチョコレートでコーティングされて光沢を放っている。
「レノリア、半分食べる?それとも三分の一?」
物凄い選択を迫るのは身長177センチの長身、褐色の肌の女性、ユンファで、レノリアは言葉を失いかける。
「手作りなんだけど、チョコ、もしかして、嫌いだった?」
しゅんとするユンファに、レノリアは慌てて答えた。
「嫌いじゃないわ。嬉しい。でも、少しずつ、大事に食べたい、かな?」
意気消沈する177センチを慰めようと言葉を紡ぐと、ユンファの顔がぱっと明るくなる。
「そうだよね、チョコレートケーキは長持ちするんだ。毎日お茶してもいいよね。」
単純な話。
ユンファはレノリアと話す時間が欲しくて、マフィアが覇権を握ってからのここ数週間レノリアは超多忙で。
「コーヒーにする?紅茶にする?」
こんな日常が欲しくて。
多分、手を伸ばせばすぐにでも手に入るのに。
「ユンファ、チョコついてるわよ。」
レノリアはユンファの口元に付いたチョコのかけらを指ですくい取って、舌先で舐めた。
「レノリアもついてる。」
ちゅっと軽い音を立てて頬に唇が当たって、レノリアはくすぐったさに笑ってしまう。
ただ、チョコレートを取ろうとしただけのユンファは、小首を傾げて微笑んでおり。
「平和って、こんなものなのかしらね。」
レノリアは甘いチョコレートケーキを一口、頬張った。
どんっと目の前に置かれたそれに、レノリアの目が丸くなった。
軽く直径40センチはあるであろう、ホールケーキ。しかも、こってりとチョコレートでコーティングされて光沢を放っている。
「レノリア、半分食べる?それとも三分の一?」
物凄い選択を迫るのは身長177センチの長身、褐色の肌の女性、ユンファで、レノリアは言葉を失いかける。
「手作りなんだけど、チョコ、もしかして、嫌いだった?」
しゅんとするユンファに、レノリアは慌てて答えた。
「嫌いじゃないわ。嬉しい。でも、少しずつ、大事に食べたい、かな?」
意気消沈する177センチを慰めようと言葉を紡ぐと、ユンファの顔がぱっと明るくなる。
「そうだよね、チョコレートケーキは長持ちするんだ。毎日お茶してもいいよね。」
単純な話。
ユンファはレノリアと話す時間が欲しくて、マフィアが覇権を握ってからのここ数週間レノリアは超多忙で。
「コーヒーにする?紅茶にする?」
こんな日常が欲しくて。
多分、手を伸ばせばすぐにでも手に入るのに。
「ユンファ、チョコついてるわよ。」
レノリアはユンファの口元に付いたチョコのかけらを指ですくい取って、舌先で舐めた。
「レノリアもついてる。」
ちゅっと軽い音を立てて頬に唇が当たって、レノリアはくすぐったさに笑ってしまう。
ただ、チョコレートを取ろうとしただけのユンファは、小首を傾げて微笑んでおり。
「平和って、こんなものなのかしらね。」
レノリアは甘いチョコレートケーキを一口、頬張った。
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一人で歩く暗い道。
誰も助けてはくれない。
涙は拭いても拭いても零れていく。
SilenceOrNoisy
静けさか雑踏か。
そのどちらもいらない。
私には、いらない。
―――――――――――――――――――――――
「今日で最後にしておくれ。」
ユンファはキリシュを追い出した。
別に深い理由があったわけではない。
しかし、いつか来る別れならば、自分できちんとけじめをつけたかったのだ。
ずっと一人だった。
確かに自分を拾ってくれた両親はいた。
けれど、自分が異質な存在だということを昔から知っていた。何かが違うのだ。
人は一人で生きて死んでいくもの。
だから、誰の手も取らずに歩いてきた。
最終戦は、ただ部屋に入るだけだった。
案内されて、三日分の食料とともに部屋に入ると、そこは薄暗かった。
「電灯くらいないのかねぇ。全く、ケチなことだ。」
毒づきながら、何もない部屋に座っていると、向こう側に誰か座っていることに気付いてユンファは目を凝らした。
「あんたが、最後の対戦相手かい?」
「さぁ、どうだろうね?」
小さな褐色の肌の長いこげ茶色の髪の少女が、こちらを見上げている。
「誰?」
「梁遠花(リョン・ユンファ)。」
平然と答えた少女に、ユンファはふぅんとうなる。
「同じ名前だね。奇遇だ。」
「じゃなくて、私があんたなんだよ。」
丁寧に説明をする少女に、ユンファは首を振った。
「あんたは、私じゃない。」
「じゃあ、僕は?」
ふっと少女の姿が揺らいで、灰色の髪の男性になった時、ユンファは顔をしかめた。
「あんた、運営の……。」
「ルリエナ、だよ。覚えてない?君は19で、一人で泣いていた。」
19歳の時。
ふっと蘇りそうになった記憶に、ユンファは蓋をしようとした。
けれど、上手にそれができない。
小さい頃から苛められっ子だった。友達といえる存在は全くいなかった。
それでも、友達と思えた同じ年の青年がいた。
友達だと思っていた。
彼に乱暴されそうになって、思い切り金的をして逃げてくるまで。
そして、泣きながら一人で薄暗い道を帰る途中に、このうすらぼんやりとした男に出会ったのだ。
「どうしたの?」
服も破けてぼろぼろのユンファに、ルリエナは上着を貸してくれた。薬の匂いがする重い、大人の男の上着だった。
「どうもしないよ。」
「分かった。」
それ以上聞こうとせずに、一緒に歩いてくれたルリエナ。
結局、彼は家までユンファを送ってくれた。
「私は、あんたが好きだったのかな?」
「さぁ、僕には分からない。」
たった一度だけだった。
一度だけ、そばにいてくれた相手。
「でもね。」
ユンファは笑う。
「やっぱり、あんたはルリエナじゃないんだよ。あんたは私。私の甘えた部分。」
すがりつきたかったり、寄りかかりたかったりする瞬間に、見える幻。
そう告げた瞬間、ふっと何もかもが消えうせた。
「じゃあ、私の勝ちかな。」
そう言って扉を開けに行こうとするユンファだが、猛烈な空腹感に襲われて座り込む。
「え?ちょっと、待って!?」
孤独よりもユンファが怖いもの。
それは飢餓だったのかもしれない。
「駄目!死ぬ!死ぬぅ!助けておくれ!」
あっという間に三日分の食料を食いつくし、ユンファは叫んでいた。
沈痛な面持ちで負けたことを報告しに本部へ行くと、レノリアがいて、ユンファは駆け寄る。
「レノリア、お腹すいた!ご飯食べに行きたい!」
「仕事が終わったらね。」
軽くあしらわれて、ユンファは頬を膨らませる。
「レノリア、あんたは、ずっと友達だよね?」
孤独より飢餓が怖くなったのは、彼女のせいかもしれない。
彼女ならば、ずっとそばにいられるかもしれない。
そんなことを思うと気恥ずかしくて、ユンファはもう一度声を上げた。
「お腹がすいたー!」
梁遠花 四回戦 負け 星1個のまま
もしもあなたが戻るなら、命すらも惜しまない
Silence or Noisy
静寂、あるいは、雑音
重なっていたはずの、二つの心臓の音
―――――――――――――――――――――――
可愛らしい異国風の帽子を被った少女に作ってもらった、似顔絵。
それを握りしめてティーエはその日も歩き回っていた。日は完全に落ち切っていたが、ゲームの始まる時刻にはまだ届かず、路地にはまばらに人影が見える。歩きすぎて靴底のすり減った貧相なスニーカー、夜になっても蒸し暑さは増すばかりで、群青の空を見上げてティーエは肩からかけた鞄からペットボトルを取り出して、温い水を口に含む。飲み下した瞬間に、柄の悪そうな禿頭の男が近付いてきて、ティーエはペットボトルを鞄に押し込んだ。
「お嬢さん、人を探してるんだって?」
友好的というよりも媚びたような作り笑いに、ティーエは鞄を強く抱きしめる。
「そうですけど……何か用ですか?」
精一杯の虚勢を張って睨みつけるティーエに、男は意味もなく「うんうん。」と頷いた。
「大変だよなぁ。こんな小さなお嬢さんが一人で人探しなんて。俺と仲間が手伝ってやるから、一緒に来いよ。」
腕を掴まれそうになって、ティーエはその手を振り払う。
「結構です!」
「遠慮するなって。ほら、行こう。」
苛立ったように、男はティーエに手を伸ばした。子どものように小さな背丈のティーエ。その腕はあまりにも細く、逃げようとしても簡単に掴まれてしまう。
「放して下さい!」
異能を使って相手の腕の骨に干渉を加えようかとティーエは、意識を集中させた。
「うちの姉になんの用だ?」
後ろから声を掛けられて、禿頭の男は振り返る。街灯の光を背に、黒髪の小柄な青年がそこに立っていた。
「フェンリル!?」
思わず声が高くなる。
「なんだ、このチビ……って、お前、紅龍会の!?」
その人物の顔を知っていたのか、禿頭の男はびくりと震えてティーエの手を放した。そして、慌てて醜い笑顔を作る。
「俺は、その……なんでもないです。お邪魔しました!」
走って逃げていく禿頭の男を無視して、ティーエは黒髪の青年に駆け寄っていた。
「フェンリル!良かった。無事だったんですね?」
抱きつこうとして、顔を間近に見上げ、ティーエは黒髪の青年の申し訳なさそうな表情に気付く。
「ファウスト、さん……。」
黒髪に赤い目、眼鏡をかけた青年は、かつてティーエが弟と間違えたファウストに違いなかった。
カメラを首に下げた、広告代理店の少女はティーエにフェンリルのことを事細かに聞いた。
「どういう子?髪の色は?目の色は?身長は?顔は似てる?ついでに、あなたの写真撮っていい?」
矢継ぎ早の質問にティーエは全て丁寧に答えた。
「私の弟で、21歳です。髪は黒、目は私と同じ琥珀色。身長は、十五歳の時は161センチだったけど、もう少し伸びているかもしれません。顔は似ています。私の写真で良ければ、参考にして下さい。」
そして、出来上がった似顔絵は、優しげな顔つきの15歳の時のフェンリルそっくりで。
それは、ファウストに非常に似ていた。
目の色を除けば。
診療所まで送ってもらって、ティーエは深々と頭を下げる。もうすぐゲームの始まる深夜に差し掛かる。その時間はゲーム参加者以外は外出禁止となっていた。
時間は限られている。
毎日の診療もあるし、急な怪我人もいる。それらのない時間だけがティーエがフェンリルを探せる時間なのに、この街を翻弄しているゲームが更にそれを短くする。フェンリルがゲームに参加しているのならば、その時間こそ探し回りたいのに。
「ありがとうございました。」
汗じみた服と、乱れた髪。自分はどれだけ貧相に見えているだろうと思うと、ティーエは悲しくなる。
「あの辺は危険だから、もう行かない方がいいと思うぞ。」
ファウストに言われて、ティーエは顔を上げ、悲しそうに微笑む。
「危ないところでフェンリルが倒れていたら、私しか助ける人間はいないかもしれないじゃないですか。私が探さないと、あの子は危ないことばかりするから。」
13歳で部屋を分けられたあの夜から、ティーエは段々フェンリルが分からなくなってきていた。ずっと自分の後ろをついてきた、気が弱くて泣き虫な弟。生まれた時からひと時も離れたことのなかった弟。
「ティーエが危険な目に遭ったら、どうしようもないだろ?」
諭すようなファウストの言葉に、ティーエは握りこぶしを作って腕を曲げて見せる。
「こう見えても、私、強いんですよ!」
ぺったんこの胸をはるティーエに、ファウストは困った顔で笑った。
「それに、危ない目に遭ったら、私のもう一人の弟のファウストさんが助けてくれるでしょう?」
精一杯の強がる言葉に、ファウストはそれ以上言う言葉が見つからなかった。
整骨院の院長、理論と知り合ったのは、フェンリルを探している途中のことだった。歩き回って、見る場所見る場所に片っ端から、探し人の貼り紙を貼らせてもらっていたティーエは、その日もその整骨院の扉をためらわず押し開けた。
「すみません、弟を探していて、よろしければ貼り紙を貼らせていただきたいのですが。」
汗にまみれて、よれよれの姿のティーエは捨てられた汚れた子猫のようだっただろう。
「あらぁ、あなた……。」
ほんの一瞬だけ、理論の目が見開かれたが、すぐに彼女は穏やかな笑顔に戻った。
「ちょっと、疲れてるんじゃないかしら。良かったら、施術を受けていかない?」
優しい声と眼差しに、張りつめていた緊張の糸がわずかに緩む。確かに、食べることも忘れて、ひたすらに歩き続けた気がする。
少しだけ。ほんの少しだけ、自分を許すことにして、ティーエはその言葉に甘えることにした。
「汗臭く、ないですか?」
診察台に横になって、マッサージを受けながら、ティーエは恐る恐る聞いてみる。限られた時間の中で弟を見つけなければならないので、診療所の休憩時間をフルに使ってここまで歩いてきた。時に人に聞き、時に貼り紙を貼らせてもらいながら。
女性の好みそうなこぎれいな整骨院の中。どこからかいい匂いがして、ティーエは目を閉じる。
「それは、あなたが自分でしたの?」
問いかけられた内容が理解できるまでに時間がかかったのは、疲れとマッサージの心地よさだけではなかった。じわりと冷や汗が吹き出す。
分かるはずがない。
誰にも話していないし、誰の手も借りていないし、誰にも見えるはずがないのだ。
「お願いです、絶対に、誰にも言わないで下さい。」
ティーエの死にそうな懇願に、理論はため息をつく。
「そんな自然じゃないことをすると、いつか、体に歪みがくるわよぉ?」
おっとりとしていながら、核心を突いてくる忠告に、ティーエは眉間にしわを寄せた。
「いいんです。……ありがとうございました。」
立ち上がり、施術代を払おうとするティーエに理論が緩々と首を振る。
「いいのよ。今日は初回だから、特別。また来てね。今度は、お茶したり、ご飯食べたりしてもいいわねぇ。」
おっとりした理論の口調の裏に、ティーエへの心配が隠されているような気がして、ティーエは深く頭を下げて整骨院を後にした。
ギルドの仕事が特にない日のフェンリルの日課は、ティーエが無事に戻ったことをひっそりと確認することだった。あの裏路地で、禿頭の男にティーエが腕を掴まれた時、建物の陰に隠れて見ていたフェンリルは、どれだけ出て行って助けようかと思ったか。けれど、結局できなかった。
見ているだけで寿命を擦り減らすような日課を終えて、ボロアパート国士無荘に辿りついたフェンリルは、入り口で嫌な相手と一緒になってしまった。
最近、ティーエのそばをうろついて、弟面をするファウストという青年。確かマフィアの一員である彼を、フェンリルはティーエのそばに寄せ付けたいとは思っていなかった。
「見てたんだろ?」
無視して通り過ぎようと思ったのに、声をかけられて、フェンリルは柄が悪く「あぁ?」と低い声を出す。
「ティーエが危険な時に、見てるだけだった。」
「ティーエって、誰だよ?テメェの女か?」
吐き捨てて部屋に向かおうとするフェンリルを、ファウストが冷ややかな目で見つめる。
「知らないのか。じゃあ、俺が弟(フェンリル)の格好をして、ティーエと一緒にいてもいいわけだな?」
「だから、ティーエなんて知らねぇよ!」
白々しいと自分で分かっていながらも、苛立ちを隠せずに怒鳴るフェンリルの胸倉を掴み、ファウストは暗い目で見下ろした。
「ティーエにお前なんていらない。」
「だろうな。俺もいらねぇよ。好きにすればいいだろ。抱いてもあの体じゃお人形遊びしてるみたいで、面白くもないだろうし。」
胸倉を掴んだ手を乱暴に払って、フェンリルは大股で自分の部屋に戻った。
やめておけと、ファウストには言われていた。
最初はファウストに頼んだのだ。マフィアの中で弟を探してくれるような人を紹介してほしいと。お金は払うからと。けれど、ファウストは微妙な顔をして曖昧にごまかしてばかりだった。
だから、ティーエは自分が動くしかないと思った。
力を貸してくれるというマフィアの人物は、性別のよく分からない服装で、体型もどちらとも言えず、ティーエは目を細めて名乗るその人物の雰囲気に圧倒された。
場末の酒場の喧噪の中、平静な表情のままその人物は指定されたティーエの前の席に腰かけた。
「エルムレスです。人をお探しとか?」
「はい。弟なんですけど、お願いできますか?」
作ってもらった似顔絵を手渡すと、エルムレスはそれを一瞥だけして、すぐにティーエに視線を戻した。値踏みする目つきに、ティーエは居心地が悪くなる。体中を裸にされて検分されているような気分になる。
「代金しだいですね。いくら払えるか、そこが問題です。」
「いくらでも。フェンリルを見つけてくれるなら、いくらでも、払います!」
藁にもすがる思いのティーエの言葉を、ファウストの声が遮った。
「ティーエ、なんでこんなことを。」
依頼をする場所と時間をファウストに教えたつもりはなかったが、数日前に助けてくれた時のように、気にかけて時々様子を見に来てくれていたのかもしれない。そして、後をつけてきたのだろう。
「ファウスト、邪魔をするな。」
「この人は俺の関係者だ。」
どこまでもティーエを守ろうとしてくれるファウストに胸中で礼を言いながらも、ティーエは首を振った。
「ファウストさんは関係ありません。お願いします。」
「でも、ティーエ、こんな奴に……。」
帰ろうとティーエの手をとろうとするファウストに、エルムレスが目を細める。
「こんな奴とは、酷いな。頼んできたのは、彼女だよ?」
「お前が出る幕じゃない。」
「ファウストさん、ありがとうございます。お願い、私のために、エルムレスさんと話をさせて下さい。」
言い争い寸前のファウストとエルムレスの間に、ティーエが入った。
「そうだ、それなら、私とファウストで一緒に探せばいい。そうしよう。それじゃ、振り込みはここで。」
エルムレスが手渡すメモをファウストがひったくるよりも先に、ティーエが胸に抱きしめる。
「よろしくお願いします!」
深々と頭を下げて、ちらりとファウストを見て、「ごめんなさい。」と呟き、ティーエは席を立った。立ち去るティーエの背中を見ながら、エルムレスがファウストに持ちかける。
「その顔だと、事情は全て知ってるって感じだろう?」
「お前が手を出さなくてもいい問題だ。」
「でも、依頼されたしね。ファウストが知ってるなら、仕事が楽に片付きそうだ。」
にやにやとするエルムレスに、ファウストは嫌な予感を拭えずにいた。
「もしかして、お前も、知ってるのか?」
「少し調べれば分かる。ギルドに、フェンリルという男がいることくらい。ただし、この似顔絵には全く似てないけど。」
ぴんと指で似顔絵を弾いてテーブルの上に投げ出したエルムレス。ティーエがずっと鞄の中に入れて持ち歩いていたそれは、角が曲がってよれている。
「楽に金がもらえて、星も手に入れられるかもしれない。」
エルムレスの笑顔は、不吉としか言いようがなかった。
その数日後。
その日、フェンリルはティーエの帰宅を確認できなかった。鳥を飛ばして診療所を覗かせても、カーテンの閉まった窓の向こうには、当然ながら何も見えず、心当たりの場所を動物たちに探させても、見つかる気配がない。
「なんで、ティーエがいないんだ!?」
がりがりと力任せに頭を掻き、足を踏みならしても、気持ちが落ち着くはずがない。時刻は深夜に差し掛かっていた。もうすぐゲーム参加者しか外出できなくなる時間だ。そんな時間にティーエが外に出ていたら、戦いに巻き込まれるかもしれない。
いても立ってもいられなくて、フェンリルは赤いパーカーを羽織って部屋を出た。
廊下に、フェンリルを待っていたとばかりに立ちふさがったのは、同じ赤いパーカーを纏ったファウスト。
「言った通り、ティーエはもらった。もう、お前はいらないよ。」
「どういうことだ!」
掴みかかろうとするフェンリルに、ファウストが一枚の紙を突きつける。そこに描かれているのは廃墟の地図のようだった。
「二時間後に、ここに来い。そうしたら、星と引き換えに、ティーエを返してやる。」
「何言ってやがる!殺すぞ!」
「俺を殺したら、ティーエは戻らないだろうな。」
びくりと、反射的にフェンリルの手が止まった隙に、ファウストは走り去っていた。
「どうすれば……。」
額に手をやり、フェンリルは低く呻くしかなかった。
13歳の夜。
あの日以来、時間を止めてしまったように、ティーエの身長は一ミリも伸びていない。
折れそうな細い手足。小さな体。
子ども時代に固執して、大人になるのを拒むように。
気がつけば、フェンリルはギルドの本部に向かっていた。
「フェンリル、こんな時間にどうしたんだ?」
仕事があったのか、ギルドから出てきた眼帯の青年、キリシュが声をかけてくれる。しかし、フェンリルはそれに反応できる精神状態ではなかった。
何も聞こえないかのようにふらふらと建物の中に入って行こうとするフェンリルの肩に手を置いたキリシュは、ようやくその存在に気付いたかのように驚いた顔のフェンリルに見られ、逆に驚く。
「おいおい、何があったんだ?」
「何が……テメェに話しても、仕方ねぇよ!」
思わず語調が強くなってしまって、フェンリルはぐっと歯を噛みしめた。落ち着かないといけない。そう思えば思うほど焦りが募る。
暑い日も雨の日も、毎日毎日、休憩時間も眠る時間も削って自分を探していたティーエ。段々と儚く消えてしまいそうな雰囲気になる横顔。
「大丈夫か?」
「大丈夫なわけ、ないだろう、が!」
キリシュに当たっても仕方がないと分かっているのに、感情があふれ出して止まらない。フェンリルは両手で顔を覆った。
「俺のせいだ。俺のせいなんだ。俺が、俺が、おかしいから。俺が間違ったから。俺が悪いのに。俺が悪いのに、なんで、ティーエが!」
「ティーエって、異邦人街のティーエ先生か?何があった?」
メイド服を着て喜ぶ変態としか認識していないキリシュが、真面目な声を出すのに、フェンリルはキリシュを睨みつけた。
「知ってるのかよ?」
「何度か、会ったことある。フェンリルって弟を探してるって言ってた。お前だろう?」
知っていながら、フェンリルがティーエに見つかることを恐れていることを考えて黙っていてくれたのかと、フェンリルはキリシュの認識を改めかける。
「ティーエがマフィアの奴にさらわれたんだ。」
「助けに行けよ。」
キリシュの答えは非常に単純だった。
「どの面下げて行くっていうんだよ!」
「その面じゃないのか?」
それに関しても、キリシュの答えはあまりにも単純で、フェンリルは頭を抱えた。
「やっぱり、テメェはただの変態だ。」
認識を元に戻しかけたところで、キリシュが首を傾げる。
「姉、なんだろう?大事な相手なんだろう?どの面とか、どうするとか、ぐだぐだ考える前に動けばいいじゃないか。」
「俺は、ティーエに酷いことをした。俺は、ティーエに会えない!」
「だったら、失ってもいいのか?失うのは簡単だけど、取り戻すことは二度とできないんだぞ。」
説得するでもなく、諭すでもなく、ごくさっぱりと言うキリシュに、フェンリルは顔を歪める。油断すると涙が出そうな気分だった。
「俺は、ティーエを犯そうとした。」
13歳だった。
同じ部屋で寝起きしていたフェンリルとティーエ。最初はただの好奇心でしかなかった。
フェンリルの声がかすれて高い声が出なくなって、ティーエの体が丸みを帯びてきた。
自分たちは同じはずなのに。一緒に生まれてきて、今までずっと同じ身長で、同じ体重で、同じものを食べて、一緒に寝てきたのに。
何かが自分たちを分けてしまう。
その何かを取り除きたくて、フェンリルはティーエの服を脱がせた。自分の服を脱いだ。
その後はあまり覚えていない。
組み敷いた体の白さとか、自分よりも細い体とか、押さえつけた折れそうな手首だとか。
物凄い悲鳴と泣き声で、我に返った時には、フェンリルはティーエから引き離されていた。ベッドの上でティーエが泣いていて、父親がフェンリルを羽交い絞めにしていて、母親がティーエを抱きしめて泣いていた。
何が悪いのか分からなかった。
そうするのが自然だと思ったからそうしただけなのに。
その夜から、フェンリルとティーエは部屋を分けられた。
線を引かれた。
「俺には、ティーエに会う資格がない。」
両手で顔を覆ったフェンリルに、キリシュは強く肩を掴んでくる。
「だったら、尚更、助けないと。」
「もう一度会ったら、俺は同じことをするかもしれない。」
「しなけりゃいいだろ。」
「人事だと思って、軽く言うな!」
ぎりっと奥歯を噛みしめたフェンリルに、キリシュは肩をすくめた。
「人事だからな。人事でも、俺は分かるよ。大切なものから手を放したら、一生後悔する。」
眼帯をつけているキリシュ。この男も何かを失ったのだろうか。そんなことがフェンリルの頭をよぎった。
両手を外すと、見張りを交代したのか、空音がギルド本部から歩いてくるのが見える。フェンリルは思わず駆け寄っていた。
いきなり駆け寄られて、手をとられ、空音は目を丸くする。
「フェン、どうしたの?」
フェンリルは構わず、空音の両手を自分の額に押し付けた。
「くぅ、頼む。大丈夫って、言ってくれ。頼む。」
切羽詰まったその声に、空音は何も聞かず頷く。
「大丈夫!大丈夫だよ、フェン。僕、何度でも言う。大丈夫だよ、フェン。」
がばっと空音の手から顔を上げて、フェンリルは苦しそうな笑顔を作った。
「ありがとう。くぅ、ありがとう。」
キリシュの元に駆け戻ってきたフェンリルに、キリシュはフェンリルの背中を強く叩く。
「行くか?」
「来て、くれるのか?」
「そこまで聞いて、行かないっていうのは、あまりに薄情だろう。」
キリシュの申し出を、フェンリルはありがたく受け止めた。
「それに、俺に考えがある。」
1時間48分。
約束の時間まで後12分しかない。
腕時計を見ながら、暇そうに廃墟の壁に寄り掛かっているエルムレスと、警棒のようなものを手にしているファウスト。
カビが生えそうに古い空の木箱の上にある、置き型の懐中電灯が周囲を白々と照らしている。天井から下がっている電球は割れていて使い物になるはずもなかった。
1時間52分。
足音が聞こえて来て、その三十秒後には、明りの届く範囲に三人の人影が見えていた。
「一人で来なかったのか?」
警棒をぱしぱしと手で鳴らしつつ、問いかけた冷たい表情のファウストの前に、キリシュが歩み出る。
「そうだよ。個人戦には、審判が必要だろう?」
「個人戦?」
その響きにどういうことかとファウストを見たエルムレスだが、ファウストも事態が飲み込めてはいない様子であった。
「マフィアのファウストが、ギルドのフェンリルに個人戦を申し込んだ。そういうことだよな?」
「あぁ。」
説明するキリシュに、答えるフェンリル。
「どういうことかな?可愛いお人形さんがどうなってもいいとでも?」
暗い笑みを浮かべたエルムレスに、キリシュが首を傾げる。
「ゲームのルールでは一般人を巻き込んじゃいけないんじゃなかったっけ?」
「僕はお人形の話をしただけだよ。大事なお人形でだろう?」
しらばっくれるエルムレスは、ちらりと二人が連れてきた黒髪の女性を見た。
「運営のアミラガよ。ギルドのフェンリルとマフィアのファウストの個人戦の審判をさせてもらうわ。」
何を考えているか読めない雰囲気のアミラガに、エルムレスはダガーの柄に手をかける。
「ギルドのキリシュと、僕の個人戦もね。」
素早く引き抜いたダガーで切りかかるエルムレスの不意打ちを、キリシュは寸でのところでかわす。
「使え!」
パーカーの中の胴体に固定したベルトからナイフを引き抜いて、キリシュに投げるフェンリルの側頭部に、ファウストが容赦なく警棒を振りおろした。鈍い音が響いて、フェンリルの体が埃っぽい腐った床に倒れる。
「フェンリル!」
「よそ見してる余裕があるのかな?」
ひゅんと風を切ったダガーの一撃を、キリシュはフェンリルから受け取った小ぶりのナイフでぎりぎり受け止めた。ぎりぎりとつばぜり合いをしながら、キリシュは空いている手でエルムレスの腹にこぶしを打ち込もうとする。それに気付いて飛び下がって避けながら、エルムレスは黒い笑いを唇の端に浮かべた。
「いいのか?可愛いお人形さんの腕が取れて帰ってきたりしても。」
追撃しようとするキリシュの腕が僅かに遅くなる。その隙を狙って、エルムレスはダガーで切り込んできた。殴ろうとした腕が浅く切り裂かれ、血が飛び散る。
「いってぇなぁ!」
ぐらぐらする頭をどうにか押さえつつ、立ち上がりざまに、蹴りを入れようとしていたファウストの足にタックルをするフェンリル。僅かに体格のいいファウストを勢いでなんとか倒して、馬乗りになって顔を殴りつけるが、横腹に膝を突き入れられて、フェンリルは再び床に転がった。今度は間髪を入れずブーツの底が降ってくる。腹を踏まれてうめき声を上げ、転がりながら逃れようとするフェンリルに、ファウストは警棒を振り上げた。
虫でも叩き潰すように容赦なく振り下ろされる警棒から転がって逃げながら、フェンリルはなんとかナイフを抜く。投てき用の木の葉形の刃のナイフを、狙いをつけて放つと、ファウストの頬をかすめて、薄い傷がついた。その血を手の平で拭い、ファウストは赤くなった手を一瞥した。
「いらないんだろう、ティーエも、星も。だったら、抵抗するな!」
ファウストの言葉にフェンリルは投てき用ナイフをもう一本構えた。
「あんなに探されて、あんなに求められて、何が不満なんだ?いらないなら、俺がもらう。」
「いらなくない!ティーエは、俺の……俺の、姉だ!」
放ったナイフは簡単にファウストの警棒に叩き落とされた。
「それなら、大事にしろ!」
次のナイフを抜く前に、間合いを詰められて、腹に警棒を突き入れられ、フェンリルは膝をつき咳き込む。酸っぱい胃液が逆流してくる。
げほげほと咳をして、口の中の汚物を吐き捨て、フェンリルはよろめきながら、立ち上がる。
「テメェ、ぶっ殺す!」
「できるもんなら、やってみろ。」
投てき用ではないやや大ぶりのナイフを抜いたフェンリルに、ファウストは警棒を構えた。鋭い切りつけを、警棒で払っていく。何度もカンカンと、警棒とナイフがぶつかり合う音が響く。
「ティーエを返せ!」
明らかに一撃ごとに疲弊していくフェンリルを、ファウストは暗い目で冷ややかに見つめた。
「お前に守れるのか?」
「守る!俺の、姉だ!姉なんだ!」
息切れしたフェンリルのみぞおちに、ファウストはブーツのつま先をめり込ませた。痛みに屈んだところで、頭に警棒の柄を振り下ろす。
フェンリルはあっさりと昏倒した。
「フェンリルとファウストの個人戦、ファウストの勝ちで、いいわね?」
けだるそうに言うアミラガの声に、防戦一方だったキリシュがエルムレスに囁きかけた。
「これ以上何かするつもりなら、あの監査委員のお姉さんに、全部話すよ?」
ため息を一つついて、エルムレスがキリシュから離れる。
「俺たちは引き分けってことで。」
ひらひらとアミラガに手を振るキリシュに、ファウストが低く囁いた。
「お人形は、このホテルにいる。」
手渡された小さなメモ。
何も聞かされず、ただ、そこにいれば弟と会えるとだけ言われて、ホテルの一室で待っているはずのティーエ。キリシュは安堵のため息をついて、昏倒しているフェンリルに駆け寄った。ファウストがフェンリルの腕章から星を一つ奪うのを見届け、アミラガは帰っていく。
脳震盪を起こしただけのフェンリルがキリシュに揺さぶられて意識を取り戻した時には、エルムレスとファウストの姿はなかった。
メモに書かれたホテルの一室で、ティーエは眠れるはずもなく、うろうろと部屋中を歩き回っていた。座っていることすらできない。
フェンリルに会える。
15歳の時に別れたきり、6年間も会っていない。
ずっとずっと探していた。
13歳のあの夜、ティーエはフェンリルに何をされそうになっていたのか、よく理解できていなかった。ただ怖くて、押さえつける手が痛くて、泣き叫んだ。
今でもまだ、多分、自分はあの時何が起こったのか理解していない、理解したくないのだとティーエは思う。
安いホテルは狭く、絨毯は毛羽立っていて、歩いてもすぐに壁に辿りついてしまう。回転して逆戻りしながら、ティーエはただ思い続ける。
どうか、無事に。
どんな姿でも、受け入れられる。
何を言われても、受け入られらる。
今ならば。
扉がノックされた時、ティーエは相手を確認することもなく、いきなり扉を開けてしまった。目の前に、灰色の髪の小柄な青年が立っている。その顔にティーエは全く見覚えがなかった。いや、あるような気がするが思い出せない。
「どなた、ですか?」
「俺だ。」
低い声。
よく見るとその青年は打ち身や擦り傷だらけで、唇も切れ、額から血も流している。
「怪我をしてるじゃないですか。大丈夫ですか?」
血の流れる額を押さえようとしたティーエの手が、そっと掴まれた。その手を宝物のように握りしめたまま、青年はその場に膝をついた。
「ティーエ!ごめん!俺が悪かった。本当に、ごめん!」
ぼろぼろと琥珀色の目から零れた涙に、ティーエははっと息を飲む。
「フェンリル!?フェンリル!?」
思わず抱きつこうとするティーエを、フェンリルは手で押しのけた。それを拒絶を受け取って、ティーエは青ざめる。
「フェンリル!お願いです、置いていかないで!捨てないで!なんでもするから!痛くても、怖くても、もう泣かない。泣かないから!」
取り縋ろうとするティーエに、がばっと立ち上がってフェンリルは、小さなその体を力いっぱい抱きしめた。
「違う!違うんだ。ティーエ、違うんだ。俺が悪かった。もう二度としない。ティーエは俺の大事な姉だから。」
――天李(ティエンリー)がしんじゃう!
いつか、怪我をしたティーエのために泣いてくれたフェンリル。
――大丈夫ですよ。
フェンリルが泣いてくれたから、ティーエはいつも強いお姉ちゃんであれた。
「フェンリルは、泣き虫、ですね。」
ティーエの目からも涙が零れ落ちる。
双子は抱き合って声を上げて泣いた。
夜明け前に、泣き疲れて眠ってしまったティーエの髪を撫でながら、フェンリルが囁く。
「ティーエ、俺、好きな奴がいるんだ。そのうち、紹介するよ。」
がばっと起きるティーエに、フェンリルが飛び上がる。
「誰ですか?可愛い子ですか?」
「狸寝入りか!」
目を輝かせて聞いてくるティーエに、フェンリルは苦笑した。
思っていたよりも安い金額を振り込んだティーエは、診療所近くの銀行から出てきたところでファウストの姿を見て立ち止まる。
「ファウストさん、ありがとうございました。」
ちゃんと弟と会えたことを報告しようとファウストを探していたティーエは、笑顔で頭を下げる。そして、その頬に薄い切り傷が走っているのを見て、しゅんと俯いた。
「フェンリルがしたんですね?」
曖昧に笑ってファウストがごまかす。
「弟さんと会えたんだろう。これから、どうするつもりだ?」
ティーエの目的は弟を探すことで、異邦人街で医者をすることではない。しかも、彼女は医学部を休学している無免許医なのだ。
「ゲームが終わるまで、ここで診療所を続けます。」
きっぱりと言い切ったティーエに、ファウストは目を瞬かせる。
「どうして……?」
「可愛いもう一人の弟が怪我をした時、ここら辺には、診療所は少ないですからね。」
いたずらっぽくにっこりと笑ってから、ティーエはファウストに抱きつく。
「本当に、本当に、ありがとうございました。これからも、よろしくお願いしますね。」
底が擦り切れて壊れた靴は、三足。
貼り紙を回収しながら見つかりましたと協力してくれたたくさんの人たちにお礼を言って回る日々で、四足目が擦り切れて使えなくなる日も近いだろう。
整骨院にお礼を言いに来たティーエを見て、理論はちょっとだけ目を見開き、この上なく美しく優しくにっこりと微笑んだ。
「やめたんだね。」
「はい。もう、必要なくなりましたから。」
13歳のあの日から、ティーエは自分の異能を自分の体に常に使っていた。
自分がそれ以上育たないように。
大人になってはいけない。
大人になろうとしたから、フェンリルと引き離されたのだ。
ずっとそう思っていた。
繋いだ手を絶対に放したくなかった。
ひと時も離れたくなかった。
けれど、手を放した時、お互いが自由になった時、フェンリルとティーエは本当の意味で向き合うことができた。
「長く生きたいんです。長く長く。フェンリルと好きな子との間の子どもとか孫とか、絶対に、抱っこしたいから!」
歪めた体は緩やかに戻るだろう。
「ロン先生、ありがとうございました。ぜひ、ご飯、一緒に食べましょうね。」
頭を下げて整骨院を出ていくティーエは、少し背が伸びたような気がした。
―――――――――――――――――――――――
個人戦 フェンリルVSファウスト
勝者ファウスト(星一個獲得)
結果フェンリル星4→星3
雑踏の向こうに小さな人影が見えた。
どんなに遠くても、どんなに小さくても、見間違うことのない相手。
それは、多分、相手も同じで。
あの視線をこちらに向けたいと思うと同時に、逃げたいとも思った。
逃げなければいけないとも。
「ちょっと、通してくれ。」
サーカスで空音の演目を見にきた時に、フェンリルはティーエの姿に気付いた。幸い、ティーエは小柄なので客に巻き込まれて、こちらに気付いていない。
空音に素晴らしかったと感想を言いたかったが、そんな状況ではなくなって、大道芸を見ている子ども達の群れに紛れ込む。黒い尖った耳の長身の猫の獣人が、ヌイグルミを操っている。
不本意ながら、子どもの群れに混じっても、小柄なフェンリルは違和感がなかった。
「あれ?あんた……。」
フェンリルを見た長身の猫の獣人の男の目が見開かれる。
「かくまってくれ!」
フェンリルは小声で囁いた。
「かくまうって、こいつ、何か悪いことしたのか?」
男の肩の犬のぬいぐるみが喋り出し、フェンリルはそいつを睨んだ。
「それを黙らせろ!」
「いきりたつなよ。子どもが怯えるだろ?」
「スパロー!」
同じギルドのメンバーで、実践部隊で特に長身で目立っている彼を、フェンリルは知っていた。空音と同じサーカスの一員だからということもあったが、何よりもその身長が、悔しいことにフェンリルの目を引いた。
「何かから逃げてるのか?まさか、マフィアとか?」
横からかけられた声に、フェンリルはそっちを見た。これまた長身の男が立っている。赤毛で頭にゴーグルをつけた彼のことも、フェンリルは知っていた。
「チノ……だっけ?あんたには関係ないよ。」
「困ってるんじゃないのか?」
小首をかしげるチノの人の良さそうな顔に、フェンリルはため息をつく。
そして、はっと顔を上げた。
「そうだ、困ってるんだ。あんたら、三回戦の説明のメール見たか?」
問いかけられて、スパローとチノは当然と頷いた。
「手、貸してくれないか?」
頼むのは本意ではなかった。けれど、勝てるメンバーを集めなければいけない。ギルドに勝ちをもたらさなければ、この街がどうなるか分からない。
「他のメンバーはどうなってるんだ?」
チノに問われて、フェンリルは眉間にしわを寄せる。
「棗とフロットには声をかけようと思ってるけど、他に誰に声をかけたらいいのか……。」
ため息をついたフェンリルに、チノが声を上げた。
「シフォンはどうかな?実践部隊で、まだチームを組んでないみたいだった。」
「シフォン?」
甘いお菓子か柔らかな布を想像させる名前に、フェンリルはスパローを見た。
「あぁ、あの結構派手……というか、個性的な格好の。」
「シフォン、か。」
呟いてから、はっと辺りを見回して、フェンリルはスパローとチノの顔を交互に見た。
ティーエが近くにいるような気がする。
「詳しいことは、本部で話そう。また、後日!」
逃げるようにその場を後にするフェンリルを、二人は黙って見送った。
もし、神がいるなら、ティーエは魂を削るようにして自分を探さなくてもいいし、自分はティーエからにげなくてもいいはずだ。
でも、そうではないから。
そばにいれば、きっと歪んでしまうから。
せめて、最愛の姉に平穏な街を。
どんなに遠くても、どんなに小さくても、見間違うことのない相手。
それは、多分、相手も同じで。
あの視線をこちらに向けたいと思うと同時に、逃げたいとも思った。
逃げなければいけないとも。
「ちょっと、通してくれ。」
サーカスで空音の演目を見にきた時に、フェンリルはティーエの姿に気付いた。幸い、ティーエは小柄なので客に巻き込まれて、こちらに気付いていない。
空音に素晴らしかったと感想を言いたかったが、そんな状況ではなくなって、大道芸を見ている子ども達の群れに紛れ込む。黒い尖った耳の長身の猫の獣人が、ヌイグルミを操っている。
不本意ながら、子どもの群れに混じっても、小柄なフェンリルは違和感がなかった。
「あれ?あんた……。」
フェンリルを見た長身の猫の獣人の男の目が見開かれる。
「かくまってくれ!」
フェンリルは小声で囁いた。
「かくまうって、こいつ、何か悪いことしたのか?」
男の肩の犬のぬいぐるみが喋り出し、フェンリルはそいつを睨んだ。
「それを黙らせろ!」
「いきりたつなよ。子どもが怯えるだろ?」
「スパロー!」
同じギルドのメンバーで、実践部隊で特に長身で目立っている彼を、フェンリルは知っていた。空音と同じサーカスの一員だからということもあったが、何よりもその身長が、悔しいことにフェンリルの目を引いた。
「何かから逃げてるのか?まさか、マフィアとか?」
横からかけられた声に、フェンリルはそっちを見た。これまた長身の男が立っている。赤毛で頭にゴーグルをつけた彼のことも、フェンリルは知っていた。
「チノ……だっけ?あんたには関係ないよ。」
「困ってるんじゃないのか?」
小首をかしげるチノの人の良さそうな顔に、フェンリルはため息をつく。
そして、はっと顔を上げた。
「そうだ、困ってるんだ。あんたら、三回戦の説明のメール見たか?」
問いかけられて、スパローとチノは当然と頷いた。
「手、貸してくれないか?」
頼むのは本意ではなかった。けれど、勝てるメンバーを集めなければいけない。ギルドに勝ちをもたらさなければ、この街がどうなるか分からない。
「他のメンバーはどうなってるんだ?」
チノに問われて、フェンリルは眉間にしわを寄せる。
「棗とフロットには声をかけようと思ってるけど、他に誰に声をかけたらいいのか……。」
ため息をついたフェンリルに、チノが声を上げた。
「シフォンはどうかな?実践部隊で、まだチームを組んでないみたいだった。」
「シフォン?」
甘いお菓子か柔らかな布を想像させる名前に、フェンリルはスパローを見た。
「あぁ、あの結構派手……というか、個性的な格好の。」
「シフォン、か。」
呟いてから、はっと辺りを見回して、フェンリルはスパローとチノの顔を交互に見た。
ティーエが近くにいるような気がする。
「詳しいことは、本部で話そう。また、後日!」
逃げるようにその場を後にするフェンリルを、二人は黙って見送った。
もし、神がいるなら、ティーエは魂を削るようにして自分を探さなくてもいいし、自分はティーエからにげなくてもいいはずだ。
でも、そうではないから。
そばにいれば、きっと歪んでしまうから。
せめて、最愛の姉に平穏な街を。
ない左足が、痛んだ気がした。
毎年の検診で、ヴィネリアが声をかけられるのは、いつものことだったが、今年は声をかけた相手が違った。
幼少期に失った足は、義足にしても成長とともにそれを調整していかなければいけない。多少ならばそのままで調整できるが、成長が著しい時には全て作りかえることもある。
「今年から、君の主治医になった、アルさんだよぉ。幻視痛がぁあるでしょぉ?そういうのもぉ、ちゃんと報告しないと駄目だよぉ。」
極彩色の髪色、ひし形に空いた制服の胸から見える胸の谷間とブラジャーのレース、青か緑か分からない目の色、甘えたような鼻にかかった間延びする声。
とにかく、その女は変だった。
「痛みが出たらぁ、すぐにアルさんにお電話だよぉ。」
渡された名刺には虹色のグラデーションでアルフォンソとやたら可愛い活字で書いてある。その下に、丸っこい字で電話番号が書いてあった。
「分かりました。」
色々言っても無駄な時間をとるだけだと、従うふりをするヴィネリアに、アルフォンソはにっこりと笑いかける。
「分かったのぉ。いいお返事だねぇ。」
ぐりぐりと頭を撫でられて、ヴィネリアは歪みそうになる表情をなんとか平静に保つ。
そこそこ長身のアルフォンソはヴィネリアより少しだけ背が低い。
「撫でないで下さい。」
すっと手を払いのけても、アルフォンソは嫌な顔をしなかった。それどころか、人懐っこく寄ってくる。
「だってぇ、君は19歳。アルさんは29歳。それにぃ、アルさんはお医者さんだからぁ、ちょっとは甘えても、いいんだよぉ?」
甘える。
その言葉に嫌悪感を抱くヴィネリア。
「失礼します。」
そっけなく診察室を出て行こうとしたヴィネリアに、アルフォンソは小首を傾げた。
「失礼なんかじゃ、なかったよぉ?アルさん、ヴィネリアくんに会えて嬉しかったけどぉ。」
真っすぐすぎる言葉に、ヴィネリアは返事すらせず、歩き出した。
「あ!ヴィネリアくんだ。何食べてるのぉ?アルさんも食べたぁい。一口ちょうだいね。」
食堂で会った瞬間に、駆け寄ってきたアルフォンソに、食べていたペペロンチーノの皿にフォークを突っ込まれて、ヴィネリアは唖然とした。仲のいい相手でも食べ物のやり取りをするのはためらわれるのに、今日初めて会った相手の食べかけのペペロンチーノにいきなりフォークを突っ込んでくるなど。
「やめて下さい、汚らしい!」
思わず本音が出てしまったが、そんなこと全く気にせずに、アルフォンソはすでに口に運んでいた。
「おいしーい!これ、ルーカくんが作ったのだねぇ。ルーカくんのはぁ、パスタの茹で加減とぉ塩加減が他の人とぉ違うんだよねぇ。おいしーい!」
歓声を上げて、止める間もなく二口三口と口に運ぶアルフォンソ。ヴィネリアが唖然としている間に、皿いっぱいのペペロンチーノは半分以下に減っていた。
「止めて、下さい……。」
もう疲労感しか覚えなくなって頭を抱えるヴィネリアに、アルフォンソははたと気付いてフォークを止めた。
「ごめんねぇ、アルさん、食べすぎちゃったぁ。すぐに作ってもらうからぁ。」
言いながら、ぱたぱたと調理場の方に向かうアルフォンソ。
「ルーカくん、ペペロンチーノお代りと、カルボナーラ大盛りでぇ!」
「また大盛りかよ!今日はこぼすんじゃねーぞ!」
プラチナブロンドの長身の青年、ルーカに言われてアルフォンソは、へへっと笑う。
ぱたぱたと戻ってきたアルフォンソだが、ヴィネリアがもう食べようとしないのに首を傾げる。
「もう食べないのぉ?」
他人に食べられた料理など口をつけたくないと正直に言うのも癪だったので、ヴィネリアは無言で皿をアルフォンソの前に突き出した。アルフォンソの顔がぱぁっと明るくなる。
「くれるの?食べていいのぉ?ありがとぉ!ヴィネリアくん、大好きぃ!」
座った状態で横から抱きしめられて、生の胸に顔を埋める形になってヴィネリアは慌てる。
「だ、大好き!?」
「うん!アルさん、ルーカくんのパスタ、大好きなのぉ。パスタくれるヴィネリアくんも、だぁいすき!」
ぎゅうぎゅうと抱きしめられて、ヴィネリアは必死になって抵抗した。
「き、気軽に、抱きつかないでもらえますか?」
「駄目なのかなぁ?」
きょとんとしているアルフォンソは、変だが明らかに美女で。
ヴィネリアは今後の治療のことを考えて頭を抱えた。
毎年の検診で、ヴィネリアが声をかけられるのは、いつものことだったが、今年は声をかけた相手が違った。
幼少期に失った足は、義足にしても成長とともにそれを調整していかなければいけない。多少ならばそのままで調整できるが、成長が著しい時には全て作りかえることもある。
「今年から、君の主治医になった、アルさんだよぉ。幻視痛がぁあるでしょぉ?そういうのもぉ、ちゃんと報告しないと駄目だよぉ。」
極彩色の髪色、ひし形に空いた制服の胸から見える胸の谷間とブラジャーのレース、青か緑か分からない目の色、甘えたような鼻にかかった間延びする声。
とにかく、その女は変だった。
「痛みが出たらぁ、すぐにアルさんにお電話だよぉ。」
渡された名刺には虹色のグラデーションでアルフォンソとやたら可愛い活字で書いてある。その下に、丸っこい字で電話番号が書いてあった。
「分かりました。」
色々言っても無駄な時間をとるだけだと、従うふりをするヴィネリアに、アルフォンソはにっこりと笑いかける。
「分かったのぉ。いいお返事だねぇ。」
ぐりぐりと頭を撫でられて、ヴィネリアは歪みそうになる表情をなんとか平静に保つ。
そこそこ長身のアルフォンソはヴィネリアより少しだけ背が低い。
「撫でないで下さい。」
すっと手を払いのけても、アルフォンソは嫌な顔をしなかった。それどころか、人懐っこく寄ってくる。
「だってぇ、君は19歳。アルさんは29歳。それにぃ、アルさんはお医者さんだからぁ、ちょっとは甘えても、いいんだよぉ?」
甘える。
その言葉に嫌悪感を抱くヴィネリア。
「失礼します。」
そっけなく診察室を出て行こうとしたヴィネリアに、アルフォンソは小首を傾げた。
「失礼なんかじゃ、なかったよぉ?アルさん、ヴィネリアくんに会えて嬉しかったけどぉ。」
真っすぐすぎる言葉に、ヴィネリアは返事すらせず、歩き出した。
「あ!ヴィネリアくんだ。何食べてるのぉ?アルさんも食べたぁい。一口ちょうだいね。」
食堂で会った瞬間に、駆け寄ってきたアルフォンソに、食べていたペペロンチーノの皿にフォークを突っ込まれて、ヴィネリアは唖然とした。仲のいい相手でも食べ物のやり取りをするのはためらわれるのに、今日初めて会った相手の食べかけのペペロンチーノにいきなりフォークを突っ込んでくるなど。
「やめて下さい、汚らしい!」
思わず本音が出てしまったが、そんなこと全く気にせずに、アルフォンソはすでに口に運んでいた。
「おいしーい!これ、ルーカくんが作ったのだねぇ。ルーカくんのはぁ、パスタの茹で加減とぉ塩加減が他の人とぉ違うんだよねぇ。おいしーい!」
歓声を上げて、止める間もなく二口三口と口に運ぶアルフォンソ。ヴィネリアが唖然としている間に、皿いっぱいのペペロンチーノは半分以下に減っていた。
「止めて、下さい……。」
もう疲労感しか覚えなくなって頭を抱えるヴィネリアに、アルフォンソははたと気付いてフォークを止めた。
「ごめんねぇ、アルさん、食べすぎちゃったぁ。すぐに作ってもらうからぁ。」
言いながら、ぱたぱたと調理場の方に向かうアルフォンソ。
「ルーカくん、ペペロンチーノお代りと、カルボナーラ大盛りでぇ!」
「また大盛りかよ!今日はこぼすんじゃねーぞ!」
プラチナブロンドの長身の青年、ルーカに言われてアルフォンソは、へへっと笑う。
ぱたぱたと戻ってきたアルフォンソだが、ヴィネリアがもう食べようとしないのに首を傾げる。
「もう食べないのぉ?」
他人に食べられた料理など口をつけたくないと正直に言うのも癪だったので、ヴィネリアは無言で皿をアルフォンソの前に突き出した。アルフォンソの顔がぱぁっと明るくなる。
「くれるの?食べていいのぉ?ありがとぉ!ヴィネリアくん、大好きぃ!」
座った状態で横から抱きしめられて、生の胸に顔を埋める形になってヴィネリアは慌てる。
「だ、大好き!?」
「うん!アルさん、ルーカくんのパスタ、大好きなのぉ。パスタくれるヴィネリアくんも、だぁいすき!」
ぎゅうぎゅうと抱きしめられて、ヴィネリアは必死になって抵抗した。
「き、気軽に、抱きつかないでもらえますか?」
「駄目なのかなぁ?」
きょとんとしているアルフォンソは、変だが明らかに美女で。
ヴィネリアは今後の治療のことを考えて頭を抱えた。